愛を言葉にしてみても

 シーツの上に横たわり、肩で呼吸をする伊吹を櫂は愛しげに見下ろす。胸元や首筋と言った、服を着ていれば分かりづらい箇所に幾つかついた噛み痕も、伊吹の病的なまでに白い肌には目立ちすぎるキスマークも、すべては櫂が残したものであった。
 数ヶ月ぶりに帰国し、つかの間のオフ。現在、プロファイターとしてヨーロッパを中心に名を馳せつつある櫂は、恋人である伊吹の元へ帰って来ていた。
 高校を卒業してからの海を越えての遠距離恋愛にも慣れ始め、近頃は目立った小競り合いもせずそれなりに上手くいっており、櫂が帰国すればこうして毎日のように愛し合っていた。
 ──そう、文字通り毎日のように。
 伊吹は呼吸が整い始めると、遠い目で天井を見上げた。
 昨日もセックスをした。一昨日も、挿入はなかったが触り合って、その前はふつうに寝て、そしてその前はセックスをし、かれこれ通算、週に四日ほどはセックスをしている計算になる。
 しかし。週に四日だからと言って、回数が四回だけという訳でもない。
 なんと言っても絶倫疑惑の消えない櫂の相手となると、一日の間に何度かするというのは常にある。
 それも、一回の内容が濃い。
 そんな、櫂の一度レストしてもノーコストでスタンドするといった環境破壊っぷりに伊吹は嫌気を──ささないのであった。そう、嫌ではないのである。これが一番の問題とも言えた。
 櫂とのセックスは好きだ。櫂のセックスは丁寧で、決して独りよがりではなく、伊吹の反応を常に気にかけてくれている。それはおかしくなりそうなほど気持ちが良い。
 万が一、伊吹が僅かにでも辛そうな素振りを見せれば櫂はすぐに中断するであろうし、むしろイきやすい伊吹が度重なる絶頂に疲れてはいないかと常に様子をうかがってくれている。
 体調とスケジュールさえ大丈夫ならば毎日だってシたい、というのが伊吹の本音であった。
 やがて忙しなかった呼吸が元に戻り始め、伊吹は一度目を瞑ってから重い体をどうにか上半身だけ起こす。
 体力には自身はあるが、この気怠さは拭えない。
「……みず」
「はい」
 伊吹の掠れた声の要求に対し、櫂はすでに準備していたらしい水を瞬時に差し出した。
 いつの間に準備したのかと複雑そうな顔で受け取った伊吹が冷えたミネラルウォーターで喉を癒していると、櫂は「風呂の準備もしてるから」と言い残し、甲斐甲斐しく伊吹の着替えを取りにベッドから降りた。
 櫂の裸体に下着だけを身につけた背中は、間抜けどころか妙に色っぽい。雄の色気を凝縮させたような身体である。成人してからはトレーニングをする時間もなく、本来の線の細さに戻りつつある伊吹とは違って、いっそう逞しくなっている気がする櫂の身体のシルエットには伊吹は見慣れることなく何度も目を奪われた。
 あれに先ほどまで抱かれていたのだ。そう思うと、顔が火照る。
 櫂が服を取りに行っている間、伊吹は暫しぼんやりとしていたが、湯だった頭を冷まそうとベッドサイドに置いてあったテレビのリモコンへ重い腕を伸ばし、明日の天気をを見るため──とは言え日付はとっくに変わっているのだが──ゆっくりと体を起こした。
 後孔はまだなにかを咥え込んでるような感覚が残り、嬌声を上げ続けた喉は掠れている。何度か咳払いをしてチャンネルを切り替えていると、見慣れたコマーシャルが流れ、思わず伊吹は手を止めた。
『ヴァンガードに新しいトライアルデッキが登場だよ!』
 アイドルを起用した派手な演出。
 アニメーションで動くユニットたち、耳に残る軽やかな音楽。
 それは紛れもない、ヴァンガードのコマーシャルであった。
 新しいトライアルデッキのコマーシャルと言うこともあり、やはり華やかで派手なのが一番だと伊吹はテレビを眺めながら考える。
 そしてなにより、このタイミングでスポンサーの要望であった売り出し中のアイドルユニットを使ったのは正解だっただろう。
 天気予報を見るつもりであったのが、気づけばまた仕事のことを考えてしまっている。
 伊吹は深夜帯の、贅沢な一分間というロングバージョンで構成されたコマーシャルを暗がりの部屋で見ていた。
『そしていま、なーんと! 豪華なキャンペーン実施中なのっ!』
『えぇっ! キャンペーン?』
 伊吹は、この何度も見てきたコマーシャルの流れで、次になにが来るかなど分かり切っていた。
 妙に慌てた様子でチャンネルを変えようと、リモコンを掴むが一歩間に合わず。
『世界中で活躍してる、あの選手たちのサインがもらえるの!』
 その台詞とともに現れるのは数名のプロファイターの映像。
 その中に、前列中央にいるのは見慣れた——
「伊吹」
 伊吹は呼ばれるとともに、テレビを消した。
「なんだ」
「もう入れるが」
「そうか」
 ありがとう、と覚束ない足取りでベッドから降りようとするところを櫂がすかさず支えようとしたが、伊吹は淡々と「平気だ」と告げて断る。少し不服そうな櫂の顔が見えた気がしたが、特に機嫌は取らないまま伊吹は恥じらいもなく全裸で風呂場へと向かおうとすると、背後で軽いベッドメイキングをしている櫂が何でもないように「そういえばゴムも買っとかないとな」と独り言のように呟いたのが、ヤケに伊吹の耳には大きく響いたのだ。
 帰国してからわざわざ買い足したコンドームが、底を突きつつある。
 櫂のペニスのサイズから考えればコンビニなどに置いてある一般的なフリーサイズのゴムは小さくてズレてしまうため、普段はサイズ感も合っているものを通販か大きめの薬局でまとめて購入しているのだが。
 櫂が帰国してから今日までの短期間のうち、あの量のゴムが尽きそうということは一体何度セックスしたのだろうと伊吹は遠い目になった。
 とは言え年相応に落ち着こう、と思うわけではなく。
 伊吹の方だって、櫂に「もっと」とねだることが多いのだ。セックスを自ら誘うことも少なくはない。
 なにも櫂ばかりが伊吹を求めているわけではなく、考えてみれば伊吹の方からアプローチをしかけることが多い気すらする。
 伊吹も先述したように、許されるなら、体の調子が万全なら、いつだって櫂と朝も昼も夜も関係なく重なっていたいと思っていた。
 櫂が欲しくてたまらなかったのだ。
 だから、これはお互い様。それはわかっている。
 では、なにがひっかかるのかといえば。
 ——世界中で活躍してる、あの選手たちのサインがもらえるの!
 液晶越しに見た、先ほどの櫂の姿。
 今となれば、もう見慣れたものだ。
 伊吹は櫂が温めておいてくれた浴室に足を一歩、踏み入れる。
 そこは大人の男が二人で入っても狭くはない広々とした空間。高校を卒業してから伊吹も仕事に慣れ、櫂のファイターとしての収入も徐々に安定し始めた頃——二人で新居を決めるため、都内のマンションを回っていたときのことだ。
 何度目かの内見の際、テツに紹介された不動産屋の男は自分達の関係を察していたのか、このマンションの風呂場について「大人が一緒に入っても広くておすすめです」と悪気なく微笑んでいた。
 それが、遠回しに二人で一緒に入れるというメリットのアピールであることに勘付いた伊吹と櫂は、なんとも言えない顔で「……そうですか……」とだけ言ったものである。
 結果として総合的に見て決まったのがこの部屋であっただけで、べつに、広い風呂で出来ることのメリットに惹かれて選んだわけではないが、確かに一緒に風呂に入れるのは悪くはない。
 高校生時代、伊吹が頻繁に入り浸っていた櫂のマンションの風呂も決して狭くはなかったが、長身の男二人が一緒に入るような広さは持ち合わせてはいなかった。
 引っ越し当初は一緒に風呂とか入らねーよなぁ、どんだけ浮かれポンチなんだよなどと二人して笑っていたものの、ヤることをヤればどちらも早く風呂に入って汗を流したいのは当たり前で、おまけに湯の節約にもなり、準備も片付けも楽であると気づいてからは効率重視で一緒に入るようになってしまった。
 色っぽい理由などは、そこにはない。
 案の定、しばらくして櫂も入ってきたので、伊吹は無言で櫂の方にシャワーを寄こした。
 洗い合いっこ、などと薄寒いことはよっぽどでないとしないが──することあるのかよ、というツッコミはご容赦いただきたい──事後に取り留めのない話や仕事の話を交わす時間はなんとなく甘ったるくて、かつてはセックスを終えたら早々に支度を済ませて櫂の家を逃げるように後にしていた伊吹からすると、こんな日常の一コマですら夢でも見ているのではないかとすら思うのだ。
 そう、夢を。
 足元を流れていく泡を見下ろし、顔を上げれば大きな鏡が見える。
 その鏡に映る自分は、紛れもなく幸せそうな顔をしていた。
 仕事も順調。実力を認められ、やりがいのある仕事を任されては成績を残し、そして異例の若さで支部長補佐に任命され、クランリーダーにもなった。
 恋人はプロのファイターとして活躍し、大きな大会では幾つものトロフィーを獲得し続け、その人気は留まることを知らず、日本を代表する最高のファイターなどと称されることもあった。
 何もかもが、上手く行っている。
 そんな夢を、見ているような感覚に時おり陥るのだ。
「……櫂」
 伊吹は体に残った泡を流しながら、背後にいる櫂に声をかけた。
「どうした?」
 帰国すれば、櫂は伊吹の元にまっすぐ帰ってきてくれる。
 離れている間の連絡もマメで、それも伊吹がちょうど櫂の言葉を求めているときにやってくるのだ。
 何度、思っただろう。櫂には己の心の声が聞こえてしまっているのではないだろうかと、そんなことを。
 毎日のように飽きもせず伊吹を抱き、愛してると言いながら貪られ、可愛い、綺麗だ、好きだと囁かれる日々。
 離れている間も、傍にいる時も、ずっと幸せなのだ。
 その幸せは、いつも櫂が運んできてくれる。昔も今も、きっとこれからも。
 いつも、櫂が。
 それはもう、互いが愛し合っているということを確認しあってから、なんだかんだと何年も続けてきた関係であった。
 伊吹は一度、口を閉じるとシャワーの水を止め、櫂の方を見ることもないまま少し俯き、大きくはない声で伝えた。
「──しばらくセックスはやめよう」

 これが、櫂と伊吹の、数週間前の会話であった。

 ——眠い。
 安城マモルは、その日も端正な顔に見事な隈を作っていた。
 昨日も結局、遅くまでイベントのスケジュール調整や、段取りを決める作業に時間を追われてあまり眠れなかったのである。
 顔を両手で覆い、「あ〜……」などと情けない声を出した。
「また寝不足か」
 呆れたようにそんな安城を見るのは、いくつか年下の後輩である伊吹コウジ。彼も連日多忙な日々を送っているはずなのに、普段のような修羅場感が薄い。
「そうだよ……許されるなら、今すぐにでも寝たい」
「仮眠室あるだろ」
「伊吹くんがこんな時間まで手伝いに来てくれてるのに、僕が寝るわけにもいかないだろう?」
 目を覆いたくなるような資料の山を前に、安城はいくつかの束を鷲掴み、そこに記載された人名に目を通す。
 それは今度開催される、地方の大規模なイベントの参加表明書。
 普段ならばコンピューターで処理されるそれを、安城は何故か一枚ずつ紙に記載された人名を端末へと打ち込み、システムに登録すると言った二度手間を踏んでいた。
 それもこれも、こう言った大きなイベントに慣れていない地方の責任者が、参加表明書を誤って紙媒体で配布・回収してしまったのが全ての発端である。
 都内と比べ、頻繁にイベントが開催されない地域ではこうして一つのイベントに人口が集中し、多くの参加者が見込まれるため、そのことを説明した上で専用アプリを用いての管理をお願いしたい旨を安城は丁寧に説明をした。
 そして、向こう側にも分かってもらえたと、そう思っていたのに。
 蓋を開けてみれば、全部紙媒体で管理しておりました、という悲しき現実をいまだに受け止めきれない。
 地方にも支部の関係者はいるのだが、安城の受け持つ都内の支部と合同イベントということあって、こうした事務作業は分担して行うことになっている。
 スキャナで文字が読み取れそうな文字は伊吹の元に、とてもじゃないが手打ちでないとどうにもならない子供の字などは安城が。
 悲しみの共同作業。
「僕の説明が下手だったんだよね……多分……お年寄り相手に……」
「理解しようとしてる奴に説明するのと、その努力すらしない奴に説明するのは話が変わってくる」
 伊吹はキッパリと言い切って、読み込みを終えたらしい厚い束を隅に置き、次に別の束を引き寄せる。
「それにしても、伊吹くん」
「なんだ」
「やっぱり櫂くんが帰国してると、君は普段より健康的だよね」
「ブッ……」
 安城から思わぬ人の名前が飛び出して伊吹は吹き出した。
「どうしたの」
「……どうしたの、じゃねぇよ」
 安城が初めて伊吹と会ったのは、伊吹が高校生の頃まで遡る。福原高校にて開催された、文化祭でのタッグマッチ形式のヴァンガード大会。
 当時は普及協会の研修生であった安城は視察という名目で訪れていたのだが、その大会での優勝者こそが、櫂とコンビを組んでいた伊吹であったのだ。
 舞台上で繰り広げられる、高校生とは思えぬ二人のコンビネーションとファイトのテクニックに、安城は釘付けになったのを今も思い出せる。
 そうして好奇心が抑えれず、試合後、そのまま二人の元へ直接話に行ったのがファーストコンタクト。
 以後は高校三年生となった伊吹が研修生として支部へと訪れ、その面倒を安城が自ら買って出るなどと、今も友人としての交流が続いている。
 そしていつしか伊吹と櫂が、いわゆる恋人同士であることも安城はすぐに察したのであった。
「……べつに。櫂は関係ない」
 伊吹がゴニョゴニョと言葉を濁す。
 そんな態度がどこか可愛らしく、安城はクスリと笑うとモニターへと視線を戻した。
 若いのに仕事ができて、ファイトの腕もあり、一見完全無欠そうな彼の唯一の弱点。安城は人知れず微笑みながら「そうだね」と言う。
「でも、いいのかい? こんなところで僕の手伝いしてて。からかってるとかじゃなくて、せっかく帰ってきてるんだろう」
 海外での活動をメインとする櫂は、オフシーズンと呼ばれる限られた間にのみ帰国するようになっていた。暫くすれば、再び拠点であるフランスに戻ってしまう。安城は申し訳なさを抱えつつ、伊吹に問うた。
「お前に心配される筋合いはない」
「そうかもしれないけど」
 どうやらご機嫌斜めらしい。
 踏み込みすぎたか、などと呑気に思いつつも、それでもあと暫くしたら半ば強制的に帰してやろうと考えていた。
 以降は黙々と作業をするのみで、一心不乱に入力を続ける安城を伊吹は横目で見る。
 口を開いては閉じ、そして意を決したように「おい」とようやく言葉が出てきた。
「なにかな」
「……安城は。大学生の時、恋人とかいただろ」
 思わず安城の手が止まる。
 その手の話を持ちかけてくるのは、大体が飲み会の席での女性職員が大半であったからだ。
 まさか、あの伊吹から色恋沙汰の話題を持ちかけられるなど。
 確かに、当時は付き合っていた女性くらいはいたが、特別人に話せるようなロマンのあるお付き合いなどはしてきた覚えはない。別れ方も、付き合ったきっかけも、面白みなどはなかった。
 安城は「いたは、いたけど」とだけ答える。
「週に何回くらいセックスしてた?」
「……へ?」
 なにを言い出すのだろう、この子は。
 顔を上げ、流石に伊吹の方を見る。
 そこには、なんとも言えない顔でこちらを見る、赤い目が二つ。視線が絡んで、相変わらず人形みたいな顔をしている子だなとぼんやり眺めた。
「……いや……どうだったかな。もう当時から、ここの仕事任されたりしてたし。結構真面目に大学も行ってたからなあ……そこまで華々しい生活は送ってなかったよ。ほら、結構忙しいものだから、大学生も」
「オレ、大学行ってないから分かんねーよ」
「あ、そうか。そうだったね」
 伊吹の仕事ぶりからして、本来ならまだ学生の年頃だと言うのをうっかり忘れてしまう。
 安城は記憶を遡っているが、やはりそこまで色のある生活をしていた記憶はあまりなく、我ながら苦笑いを溢した。
「とは言っても、彼女と会える日もまちまちだし。会っても、することは別にそればかりじゃないからね。相手の体調もあるし、お互いの気分もあるから」
「……そうか」
「うん。なんか、もっと年上らしくこの手の話題も柔軟に応えれたらかっこよかったんだけど」
 仕事大好き人間、と言われて過去の恋人にフられたことを思い出しながら、今より若い時からこうだったなと安城は諦めも含んだ表情で遠くを見る。
 女性ウケが良いはずなのに、他に大切なものが多すぎるあまり、関係を長続きさせれない男であった。
「でも、どうして急にそんな。僕とはそう言う話するの、嫌だと思ってたよ」
 だが、こうした話題を伊吹が自ら持ちかけてくれるようになったのも、妙に嬉しくはある。
 人に中々懐かない猫が、少し甘えてきたときの喜びと似ていた。
「お前くらいしか、こう言う話を茶化さず聞いてくれそうな奴がいない」
 伊吹は、確かに自ら人の輪に入り、好んで馴れ合ったりする性格ではない。
 元は体育会系の部活に属していたらしく目上の者への接し方にも意外なことに慣れており、伊吹本人が若いからこそ自然と周囲も年上ばかりになるものの、先輩などはファイトの腕と仕事の早さを買っていて多くは伊吹を気に入っていた。
 ただ、その有能さゆえに当然妬みや羨望も多く、友と言える関係は周囲とは中々築けずにいる。
 従って、同じ職場の友人というと、安城は自分くらいしかいなかった。と言うのが、安城の持論である。
 それにしても突然、こんなことを聞いてくるなど。
 櫂と何か、あったのだろうか。
 余計なお世話だとはわかっているが、仲のいい二人を知っているだけあって、安城は少し心配してしまう。
「……櫂くんが帰ってきたのに、そういう雰囲気にならないとか?」
 安城は決して直接的な言葉を使わず、やんわりとオブラートに包んで、レスなのか否かを問うた。
 伊吹は数秒、一時停止したのち「いいや」と言う言葉と共に首を横に振る。
「……その、……で」
「え?」
 小さな声で、ボソボソと話す伊吹の声が聞こえない。
 聞き返すと、伊吹は少し顔を赤らめた。
 そんな顔もするのか。安城は何度か瞬きをする。
「……その、逆なんだよ!」
「……ええと、逆? というのは?」
 なにを指しての逆なのだろう。安城が首を傾げると、伊吹はキッと安城を睨む。そこまで言わせるのか、という目であった。
 別に、安城とて意地悪をしてるわけではない。主語をつけない君の責任だろう、などと視線で訴えると、伊吹は観念したのか渋々口を開いた。
「……帰ってきてから、ほぼ毎日だ」
「え?」
「ほぼ毎日セックスしてた」
 安城は椅子の上からひっくり返りそうになる。主語をつけろとは思ったが、そこまで明確にしろとは言っていない。
「……そ、そうなんだ。まあ、いいんじゃないかな。レスで悩むより……」
「良いわけあるか……っ! 自分のケツが心配になる」
 友人のそう言った姿をなるべく考えないようにしようと、安城は咳払いと共に脳内で適当なアフリカのサバンナの風景を描きながら思考を濁した。
 ——伊吹の言い方からして、彼が受け入れる側なのだろうか。
 ああ、いや、考えるのはやめよう。
「嫌なら拒めば良いじゃないか」
 もっともである。しかし、そう言われた伊吹は視線を彷徨わせて「いや、うん」と続け、左目を覆う前髪を指でいじった。
 その態度からして、どうやら嫌と言うわけではないらしい。このまま何もなく、ただの惚気ならば安心なのだが。
「しばらくしたら、櫂くんもまたフランスに帰ってしまうんだし。良いと思うよ? 歳食ったら、そんなの自然と減るものなんだから」
 まだアラサーにすらなっていないと言うのに、安城はどこか年寄り染みたアドバイスを伊吹に送る。伊吹はその言葉に複雑そうな顔を浮かべて、納得しきれていないと言う風に頷いた。
「……でも、この前に言っちまったんだよな。暫くシないって」
「櫂くんは納得したのかい?」
「まあ……オレが言ったら、だいたい聞くから。あいつ」
 程よく尻に敷かれてやっているらしい、ユーロリーグの覇者が微笑ましい。
「お互い、納得してるならそれもいいんじゃないかな。恋人も友人も、結局大事なのは意思疎通だからね」
「……いしそつう」
「他人同士が関わり合う中では我慢も大切だけど、我慢する側がどちらか一方に偏ってたら破綻するものだろう?」
 安城のもっともらしい言葉に、伊吹は彼のような友人ができてよかったと、本人には直接言わないが心の中で深く感謝をする。
 同級生でもあり、同じ部で共に主力として肩を並べたレンは相談相手としては——それも櫂に関して——論外であるし、テツは伊吹を子供扱いしすぎる傾向があるのと、なんだかんだ優しさ故に結局は当たり障りのないことしか言わない。そしてアサカと言えば櫂のことを以前より好ましく思っていないため、最終的に伊吹よりも櫂に対して怒り始めると言った困った一面がある。
 それ故に、公平で客観的な意見で話を聞いてくれる存在は、友人を多く作らない伊吹の中では安城が唯一であった。
 そして、安城の言葉をもとに、セックスを控えると言った伊吹の言葉に対して、その時に見せた櫂の態度を思い返すが——あの時の櫂は、話は聞いたが、納得をしているという感じではなかった。
 我慢をさせているのは、やはり自分である。
 伊吹は、〝やっぱり〟いつもそうだと顔を曇らせた。
 安城はこんな時間まで伊吹が自ら手伝いを申し出たのは、家に帰りづらかったからなのだろうなというのを、ここに来てなんとなく察する。
 こんな時ばかりは、伊吹がちゃんと年下として安城の目に映るのだった。
「伊吹くん、思ってること話したほうがいいよ。伊吹くんが拒むのは回数云々じゃなくて、もっと他に理由があるからなんだろう?」
 言い当てられ、伊吹は目を丸くした。
 まるで超能力者でも見ているような顔である。
 少し間抜けな伊吹の表情に安城が笑っていると、不意に伊吹のスマートフォンが鳴り、慌てた様子でポケットから端末を取り出して着信元を確認した。
「……櫂だ」
「遅いから、心配したんじゃないかな。伊吹くん、ここはもう大丈夫だから、ちゃんとお話ししておいで」
 促され、伊吹は申し訳なさそうに安城を見た。
 向けられる笑顔に毒気はなく、心からの言葉であることを、伊吹は疑う余地もなく理解する。
「……悪い」
「うん。どういたしまして」
 伊吹は櫂からの電話に出ると同時に、執務室を後にした。机上にある書類の山を見渡して、安城は大きく伸びをする。
「さて、やりますか」
 伊吹と櫂に、何事もなければいいが。
 安城は友人のことを心配しながらも、今は退屈な入力作業に専念することにした。

 伊吹が電話に出ると、櫂はすでに車で伊吹を迎えに来ていた。
 漂う空気が妙に気まずい雰囲気なのは、あの日以降、伊吹が櫂のことを妙に避け続けた結果である。
 自業自得だと思うが、それでもへそを曲げずに、遅くなった伊吹をこうして迎えにきてくれる櫂の優しさが胸に伸し掛かる。
 車に乗り込み、会話もない車内には、櫂が好むクラシックの曲が寂しげに流れているだけであった。
「遅くなるなら、連絡してくれ」
「……悪い」
 交わした会話は、これだけ。
 ——ちゃんとお話ししておいで。
 安城の言葉を思い出し、何かを言おうとするも、結局はやめてしまうのを繰り返す。そんな伊吹を、櫂が横目で盗み見ていることに、伊吹は気づかない。
 そして気まずい空気のまま、差し掛かった交差点の前。
 束の間の沈黙を破り、伊吹が「あの」と言いかけた、その時だった。運転席の櫂へと視線を移すと、その翡翠の瞳は既に真っ直ぐと伊吹の方へ向けられていたのである。
 長引く赤信号で止まっている車内。視線が重なり、伊吹の顔が熱くなる。
 そして、櫂はなにも言えなくなった伊吹の顎を掴むと、噛み付くようなキスをした。
 都会の夜は暗闇とは言い難く、昼間と変わらず華やかに賑わっている。スモークを貼っていないフロントガラスから中を覗き込むことは容易く、誰が見ているかわからないような車内で突然キスをされた伊吹は持ち前の反射神経ですぐさま櫂を押し返し、距離を取った。
 その顔は、まだ赤い。
 触れるだけのキスであったのに、それでも触れた唇が熱いのだ。
「お、おまえ、自分の立場を」
「立場って?」
 車が静かに走り出す。
 ガラスに反射した、夜の街を彩る街灯が櫂の端正な横顔を照らしていた。顔を赤くしたままの伊吹は言葉を選ぼうとするも、うまく声に出せない。
 相変わらず重い空気の車内で、櫂は伊吹の顔を再び横目で見たあと、視線を前方に戻す。
 すると、ビルの壁面に飾られた派手な屋外広告が見え、それがヴァンガードの広告であると理解すると同時に、見慣れた顔ぶれの中に自分が肩を並べているのを目の当たりにする。
 ハンドルを握る白い手に、力が込められた。
「……悪い。わかってるよ、お前が言いたいことは」
 もう、祖父や祖母の時代ではない。恋人が同性というだけで必要以上に騒がれるような、時代錯誤な世の中でもないだろう。
 だが、それ以前に女性ファンも近頃増え始めた櫂の世間における扱いは、いわゆる《うら若いイケメンファイター》などといった、いかにもマスメディアウケのしそうなものが大半になりつつあった。
 櫂がこうした扱いを受ける以前から、地道に大会での優勝経験を積み、苦労もそれなりに重ねてきた姿を知る古くからのファンは、近頃の櫂のメディアの露出と世間からの注目に喜びを感じつつも「櫂はアイドルじゃない」と言った意見も増えており、それに反論するファンとでネット上では頻繁に小競り合いが繰り返されている。
 ファイターのサポーターである伊吹もその現状は把握しており、殺到する櫂へのアイドルじみた仕事の類は量を調整するようになど努めてはいるものの、ファイターを支えるのは結局はスポンサーであり、櫂トシキという一人のファイターの今後を考ると、なにが彼のためであるのかが、分からなくなっていく。
 そんな緊迫した中、櫂に恋人がいることが世間に出てみればどうなるかなど、誰にだって分かることだった。
 知名度が上がり始めた、今が重要なのである。
 かつては櫂が誰かと喋っていることにすら気に食わなかった伊吹が、彼がどんな形であろうと、世間に注目されている今を最も喜ばなければならない立場なのであった。
 見慣れたはずのテレビ越しの櫂の姿も、今では誇らしく感じられるのは嘘じゃない。
 けれどそんな時にいつも思い出すのは、出かけた日の帰り道、櫂の指先を握って歩いた高校生の頃の二人の姿なのだった。
 この言葉にしようもない寂しさは、恋人がいることを櫂が公表することで和らぐものでもない。むしろ櫂がそんなことをしようものなら、伊吹は怒り心頭に発するであろうし、実際、櫂もそんなことをするほど愚かにもなれなかった。
 櫂は、己の今が、どれだけ多くの人が携わってできているのかを理解している。
 そして伊吹が、そんなことを望んでいないことも。
 学生の頃なら、もっと全力で衝突しあっていたであろう現状も、中途半端に大人になりつつある二人は絶妙な距離を取りかねては、互いに振り上げた拳を下ろし、そして沈黙することが増えた。
 喧嘩するほど時間もなく、別れ話をするほどの余裕もなければ、全てを忘れて愛し合うほど呑気ではない。
 ふと、伊吹の脳裏に倦怠期という言葉が過ぎる。
 それがどういうものなのかは具体的には分からないが、別れたり引っ付いたりを頻繁に繰り返していた十代の頃が健全に見える今がいかに不健全なのかは理解できた。
 仲は悪くない。むしろ、良好すぎて。
 ——だが、もし、もしも。
 もしもいま、伊吹が昔のように、癇癪を起こして櫂に「別れる」と言い放っても。
 櫂が昔のように、必死に引き止めてくれる自信が、今の伊吹には正直のところ、なかったのだった。
 厳密に言えば、引き止めてはくれるだろう。そんなことを言うなとも言ってくれるはずだった。
 けれどそれは惰性の産物で、または呆れの類であろうことが、伊吹には手に取るようにわかる。
 かれこれ十七歳のころから今に至るまで続いたこの関係を保つより、壊すことのほうが櫂にとって面倒であったとしたら。
 それは伊吹にとって一番目にしたくない、聞きたくない、けれどもっとも現実的なもしも話だった。
 抱かれている間は幸せでも、終わった後は妙に喉の奥が重くなり、息苦しい。
 それが怖かった。
 櫂に抱かれていることこそが、一時期は唯一の安定剤でもあったのに。
 櫂は初めて抱いてくれた時からなにも変わらない。
 変わらない、なにも。
 優しくて、温厚で、正面から向き合ってくれる。
 だのに、それを喜べない自分がいた。
 レスで悩むよりマシじゃないか——そうかもしれない。伊吹は、自宅付近の見慣れた風景に入ったあたりで、目を瞑った。
 この、二人を取り巻く空気も、気付かないふりをしていればいいだけだと言うのに。
 伊吹が甘えれば、櫂は喜んで受け入れてくれるだろう。
 なにがそんなに不安だというのか。
 いつも、そうだった。伊吹が自分から壊しに行かない限り、櫂は伊吹のことを愛してくれている。
 それをいまだに「櫂の気の迷い」だの、「自分は櫂にふさわしくない」だのと言うつもりはない。伊吹は櫂に向けられている感情の真摯さを、身をもって知り尽くしていた。
 だから、思うのだった。
 派手な喧嘩をすることもなくなり、一緒にいることが当たり前となって、同じ色の景色を見れるようになった今。
 互いがそばにいる理由が、だんだんと義務的なものに変わっていっているような気がして仕方がない。
 櫂から向けられる気持ちの色ではなく、自分が櫂に対する感情が、徐々に色褪せているような不気味さが、恐れが、足元にまとわりついていた。
 櫂が多くのファンに囲まれていようと、今や伊吹がそれに渋い顔も浮かべることはなく、淡々とサポーターとしての責務を果たす。それは他のファイターに対する配慮と何ら変わらない。
 仕事なのだから、当然である。けれど、与えられた仕事をするだけの、職員でしかない自分に僅かな絶望を抱えつつあった。
 しかし櫂が帰国すれば、たちまち一緒の部屋で寝起きをして、キスをして、食事を囲んで、抱き合って、ちゃんと恋人の役割もできている。
 櫂に対して、昔と同じ気持ちを抱けていない、そんな危機感と罪悪感すら抱きながら、櫂の真っ直ぐすぎるほどの「愛してる」を独占し、そして自分の元に縛り付けている──。
 そんな、静かな苦しみを、伊吹は繰り返される幸せな日々の中で少しずつ積み重ねていたのである。
 幸せな日々が壊れる時は、一瞬なのだ。
 これは、かつてのトラウマとも言えるのかも知れない。それをずっと、飽きもせず引きずっている己が馬鹿らしかった。
 初めて人を好きになったあの頃から、今日までずっと抱え続ける不安。
 小学生の頃──好きになったその人は、誰よりも堂々としていて、やんちゃで、無鉄砲なようで、けれど本当は誰よりも視野の広い太陽のような人だった。
 中学生になっても、まだその人のことが好きだった。
 唯一の心の拠り所であった。どれだけ自分が変わっていっても、自分を守るために変わらざるを得なくても、心の中でその人が太陽である限り、救われているような気がした。
 高校生になって、また同じ人を好きになった。
 優しかった。お人好しとも言えるくらい、愚かなほどに優しい人だった。
 そして一緒に大人になった。
 それでも、伊吹は櫂のことが好きだった。
 不安でたまらなくても好きなままで、櫂もそうだと言ってくれた。
 間違いなく、今の自分は恵まれているはずなのに。
「……櫂」
 マンションの駐車場に入ったところで、伊吹が口を開く。
 櫂が「ん?」と言いながら、慣れた手つきで駐車を行っている間も伊吹は目を瞑って、なぜ自ら壊しに行くのだろうと己を客観的に蔑んだ。
 ただ──櫂がいつも、伊吹に対して真っ直ぐであってくれたから。伊吹も櫂に対してそうでありたかった。
 櫂になにも返せない自分なりに、最低限、足並みを揃えていたかったのだ。
 間が空いて、目を開く。
 少しのことで嫉妬をすることも、少なくなった。櫂は同情で一緒にいるだけなのだと、悲観して泣くこともなくなった。セックスだけが、櫂を縛り付けれる手段だとも、思わなくなった。
 贅沢なのだろう。
 だが、今まで喪失と孤独の中で生きてきた伊吹にとって、身に余る幸福と言うのは不安の種だった。
 今は、櫂の気持ちが自分から離れることよりも。
 それよりも、その幸せを前に自分自身が変わってしまうことの方が。
「……オレは今も、ちゃんとお前のこと好きでいれてる?」
 ずっと、ずっと、恐ろしくてたまらなかったのである。
 小さな声のあと。車が、止まった。
 問いかけからしばらくして櫂がエンジンを切ると、そのまま座席の背もたれに身を預け、首だけを伊吹の方に向ける。
 その視線に気づき、伊吹も息を深く吐いてから顔を櫂の方へ向けた。
 その時、櫂が浮かべていた表情は──深刻そうなものでも、ましてや困惑しているようなものでもなく。
 伊吹のかき乱された感情を宥めるように優しい微笑みであり、伊吹は思わず顔を歪めた。
 鼻の奥が痛む。
 櫂は手を伸ばし、恋人の頭を撫でた。
 他人は見過ごすような小さな亀裂でさえも、指先のささくれでさえも、伊吹の中ではとんでもない大事件であることを、櫂はちゃんとわかっているのであった。
 櫂にとっては突然としか言いようのない問いも、きっと伊吹にしてみれば人知れず、長い間悩み続け、苦しんで、そしてやっと言語化できた一言なのだろう。
 もう、何年も、伊吹を見てきたのだ。
 高校生の頃なら、この意味深な問いに戸惑い、伊吹はそんな櫂を前に罪悪感から「もういい」と続けていたかも知れない。
 今も最善が、どれなのかは分からなかった。
 だが、櫂は伊吹の頭を撫でながら、当然のように言うのである。
「……俺は、お前に。ちゃんと愛されてるよ」
 それはまじないのように。
 櫂の肯定が、伊吹の心にできた小さな傷を撫でて、慰めた。
 頭を撫でる櫂の手に自分の手を重ね、伊吹は小さな声で「本当に?」と聞き、櫂はそれに対しても頷いて、「本当に」と力強く肯定する。
「伊吹は俺のこと、ずっと好きでいてくれてる」
 自惚れではない。確信すら、櫂にはあった。
 この確信に揺らぎが生じたことは一度もない。
 伊吹の後頭部に手を回した櫂が顔を近づけ、先ほどは拒まれたキスを伊吹に再び仕掛ける。
 少しカサついた伊吹の唇を少し舐め、リップを塗れと何度も言ってるのになどと思いながら、拒否をされなかったことを確認し、そのまま舌を差し込んだ。
 生温い伊吹の口腔の粘膜は甘いような気がする。ざらついた舌を擦り付けあって、唾液をかき混ぜながら何度も角度を変えてキスを繰り返した。
「ん……ぅ」
 車内の空気はすぐに淫蕩なものへと変わり、伊吹の時折漏れる甘えたような声に櫂は目を細める。
 髪に触れていた手で横髪を耳にかけてやり、外気に触れた伊吹の耳の縁をくすぐるように撫でてやると、櫂の舌に吸い付いては「もっと」とねだっていた伊吹の肩が跳ね、櫂はそのまま耳の中の窪みや段差を親指でなぞった。
 櫂が帰国をしてからしばらくして、伊吹に言い渡された「セックスを控える」の言いつけは存外、櫂に無理を強いていたらしい。
 普段ならば家に帰るまではそういうことをしない、という暗黙のルールをそれなりに守る男が、目の前にある自宅マンションへ戻るまでの時間すら惜しみ、駐車場で伊吹に噛み付くようにキスをしている。
 伊吹は流し込まれる熱い唾液を飲み、耳への愛撫に膝をすり合わせた。
 伊吹が今度はどのような複雑な思考回路の末にあのような質問をしてきたかのかは、恐らく櫂にはその全貌を一生分かってやれない。
 しかし、目を瞑りながら櫂からのキスを夢中で受け入れ、頬を赤らめている姿を見ると、やはり〝伊吹は櫂のことが好きである〟と言う選択肢以外はあり得ないように、翡翠の目には映るのだ。
 否。櫂は、それしか許さない気でいた。
 伊吹が心を動かすのも、焦がれるのも、かき乱すのも、全て自分でないと許せないような——そういった幼稚な独占欲を、櫂は自覚しつつあった。
「……かい……」
 互いを貪るようなキスの後、ゆっくりと顔を離し、唾液に濡れた唇を指で拭ってやる。
 伊吹は濡れた目で櫂を見つめ、酸素を取り入れる度に肩が上下していた。いつもはきっちりと着込んでいる仕事着のテーラードジャケットが肩からずれ落ち、撫でられた髪が少し乱れ、視線は熱っぽい。
 その表情は、伊吹に「抱いて欲しい」と請われた時と同じ熱さであった。
 櫂だけを求める目である。
 過去に何度、この目に理性を奪われたのだろう。
 櫂はもう一度、触れるだけのキスをして、伊吹を抱き寄せる。
「……また、別れようって言おうとした?」
 伊吹が腕の中でもう随分と嗅ぎ慣れた香水は、櫂が昔から好んでつけているものだった。
 無言のまま黙り込む伊吹の背中を、トントンと一定のリズムで優しく叩きながら、櫂は小さくすする鼻の音を聞いて困ったように笑う。
 最初は追いかけるしか出来ない、小さな伊吹の背中だった。
 なんでも出来て当たり前になっていた小学生の頃。出来ないことが、ふと櫂の前に現れたのである。
 当時、伊吹にヴァンガードで勝てたのは結局数えるほどで、それでも飽きずに何度も勝負を挑んで、その度に負けた。
 一方で伊吹は自分よりも未熟であった櫂の挑戦を文句も言わずに引き受けては、櫂が強くなれるように、丁寧なアドバイスを欠かさなかった。
 そして何度目かの挑戦の末に櫂がようやく勝つと、伊吹は心から喜んでくれたのだ。
 すごいね、もう一度やってみようと、優しく笑ってくれる伊吹の顔がもっと見たくて。誰よりも出来て当然となっていた櫂にとって、伊吹が小さな成長すら喜んでくれるのが嬉しかった。
 いつか先導者である伊吹を追いかけるだけではなく、その隣で肩を並べてみたいと思っていた。
 そして、それは今になっても。
 伊吹は櫂の成功を、手放しに喜んでくれるのだ。
 プロになれるほどの実力を持っていながら、世界各国を飛び回る道ではなく支部の職員としての道を伊吹が選択したのも、櫂は驚かなかった。
 彼らしい。そう、思えたのである。
 確かに惜しいとは感じる。実際、あそこまでの実力者は櫂の贔屓目を差し引いても他にはいない。
 けれど己の先導者が選んだ道は、何よりも彼らしく、素晴らしい選択だと櫂は誇らしかったのだ。
 たとえ日本を離れ、慣れない土地での暮らしが続いても。日本で見守ってくれている伊吹を思うと、二人の間にある日本とフランスの距離すら感じなかったのだ。
 嫉妬深かった伊吹がファンに囲まれている櫂の姿も、櫂が築き上げた成功の一つとして喜んでくれていることをちゃんと分かっている。
 それは色褪せた訳でもなく、二人の年齢と立場が変わったように、相手に向ける愛の種類が増えただけに過ぎない。
 櫂は誰かのためでも、ましてや伊吹のためでもなく、自分の意志で今の道を選んだ。だからこそ、櫂が選んだ選択の成功を応援し、喜んでくれる伊吹の存在がどれだけ櫂を支えていたかを、伊吹は知らない。
「もっと、ちゃんと結果残してから言おうと思ってたんだが」
 いま、伊吹が自分の元から離れようとしたとして。
 高校生の頃のような必死さはそこになくとも、代わりに自信ならある。
 恋人が魅力的であることを知り尽くしている櫂からすると、伊吹がいつまでも自分だけを見ているなんて慢心はできないが、それでも伊吹を信じているのだ。
「俺が自分で納得できる結果出して、引退したらさ。ちゃんとした手続き踏んで、一緒になろう」
 形式ばったものに落ち着くのは嫌いだった。
 互いに家族という形に夢を見ていなければ、子供の好き嫌いは別として、養子として子供を引き取りたいと思ったことはない。
 別姓が認められるようになった近年、きっと一緒になったとしても、今と変わらず互いに違う姓を選んで自分の信じた道を生きていくだろう。
 櫂も伊吹も両者安定した収入があり、言ってみれば入籍をしたところで特に目立ったメリットも変化もない。
 幸せの形が多様化した世の中で、櫂も、それが全てだとは思っていなかった。
 だが、異国の地で一人でいることが増えた頃。
 考えることが増えた。
 事実婚状態を今後も続け、正式な形で一緒になることが得でもないのなら、決して損でもないと。
 ならば、ちゃんとした形に落ち着くのも悪くないと思えるようになった。
 それは大人になってしまったからなのだろうか、櫂には分からない。ただ、心配症で不安がりな伊吹の隣に居続けることができる、もっとも確実で明確な手段が入籍ではないかと、思い至ったのだった。
 櫂の単刀直入なプロポーズの言葉に、伊吹は目を見開き、何度か瞬きをする。
「……なんで」
 その困惑の色に、櫂は笑った。
「伊吹が好きだから」
「……オレ、べつに……いまのままでも」
「ああ。だから……俺が、お前と一緒になりたいなって。それだけ」
 これは伊吹のための言葉ではない。櫂が、そうしたいと思っての言葉だった。
 抱き寄せた伊吹は、清潔感のある洗髪剤と服の柔軟剤の香りがする。
 伊吹は、ずっとそうだ。
 長い髪から漂う、シャンプーの香りが伊吹の匂いだった。
 高校生のころ、櫂がつけていた香水の香りをいたく気に入っていた伊吹に「つけるか?」と問うと、伊吹は首を振って「それはいい」と言い、お前から香るから好きなのだ、と。
 真顔で、それだけを言われたことが懐かしい。
 当時は体だけの関係で恋人ですらなかったが、伊吹のことを意識しつつあった櫂は、この伊吹の天然なのか狙っているのか分からない言葉に随分と頭を抱えたものである。
 その言葉が染みついて、結局今になっても香水を変えれずにいた。
 幸い、安物の香水をつけていなくて良かった。
 もし、薬局で並べられているような安価な香水を身につけていて——身の回りのものにこだわる櫂に限ってそれはないが——伊吹に気に入れられていたとしたら、この年になってもその香水をつける羽目になっていた場合を考えると末恐ろしい。
 櫂は密着した伊吹と自分の香りが混ざり合うのを愛しく思いながら、言葉を続ける。
「伊吹が、そういうのが嫌なら今のままでいい。これは俺のわがままだから」
 腕の中に閉じ込めていた伊吹を解放し、その顔を見つめて微笑んだ。
「俺が伊吹と結婚したい」
 先ほどよりもずっと直接的な言葉に、櫂に見つめられた伊吹の顔が見る見るうちに赤くなっていく。
 先ほどまで、どの口が「今も櫂のことをちゃんと好きでいれてるか」など聞いていたのだろう。どんな言葉よりも雄弁な伊吹の態度に、櫂はまた目の前の人を愛しく感じた。
「……引退、って、いつの話だよ」
 スポーツなどとは違い、年齢による体力の衰えや、怪我を理由に引退を選ぶことがほとんど見られないプロファイターの引退時期とは、選手によって千差万別である。
 近年ではカードのテキストを見やすくするガジェットも増え、老若男女問わずに人口が増え続けている競技で、櫂の引退後など気が遠くなる話であった。
「お前、今はまだ……オレたちはどっちも若いから、いいけどな。どうせ、ほっといてもどっちも爺さんになるんだぞ。入れ歯になってるかも知れねーし、自分でトイレにも行けなくなってるかも知れない」
 考えすぎだと、自分でも思う。
 けれど、老いはいつかは確実に来る未来だ。
 伊吹は常に、周囲よりも何十倍も、何百倍もあらゆることを同時に考えながら、それを丁寧に丁寧に濾過を繰り返したあと、唯一の結論を出すといった処理を行う思考回路を持ち合わせている。
 伊吹が入籍を渋るのは、事実婚という形なら、どちらかにかかる責任は自分の分で済むからであった。
 金銭的に依存しあってる仲でもなく、己の老後くらいは余裕を持って面倒も見れる見通しであったが、それが配偶者となればいろんなことが変わっていくだろう。
 なにも老いた後のことばかりの話ではない。
 伊吹が、身動きも取れないような大きな病気にかかるかも知れない。明日や明後日に、天災や事故に遭って目を覚まさなくなるかも知れない。もしも事件に巻き込まれたら、もしも心を病んでしまったら。
 その時、結局はただの他人であれば、櫂を自分から解放させてやれる。
 伊吹が櫂を見放すつもりはなくても、自分のために己を犠牲にする櫂は見たくなかった。
 その感情こそが、初めて櫂に恋をした時から変わらず、伊吹が心から櫂を思い、愛していることの証左であったが、それでも伊吹は自分の感情にも、二人のこれからも、楽観視などできなかったのである。
 ずっと一緒だと思っていた存在が突然いなくなることを、知ってしまっていたから。
「結婚ってのは、そういうことだ。好きだからって、そんな考えもなしにするもんじゃない」
 櫂には、なにも背負わずに自由でいて欲しかった。
 その心の片隅で、自分のことを愛でてくれたらよかったのに。
「責任も、心配事も倍に増えるんだ。お前、シワクチャの、ただのハゲたおっさんになったオレにも綺麗だ愛してるって言」
「言える」
 伊吹が言い終える前に、櫂は食い気味にそう告げた。
 伊吹の言いたいことは、櫂にも分かる。櫂だって、明日も明後日も、これから先もずっと、なにも変わらないわけではない。
 生きている限り老い、そして人には遅かれ早かれ等しく死が来る。
 けれどそんな、いつ来るかも分からないその時を怯え、愛する誰かに迷惑をかけたくないと意地になっている間も人は平等に歳を重ねて行くのだ。
 そんなの、勿体無いではないか。
 それに、たとえ一緒になっても、櫂は伊吹に縛られたとは思わない。
 ほんの少し、二人で生きやすくなっただけである。
 櫂にとっては未来のことを不安に思うあまり今を踏みとどまるより、共に迎える未来を一緒に悩み、考え、苦楽を分かち合いながら二人で笑いたかった。
 一緒に歳を重ねることを、増えていく皺も、困難ですらも楽しみたかった。
「お前がボケて俺のことを忘れても、自分で飯が食えなくなっても、俺が一口ずつ食わせてやる」
 それは、櫂が伊吹のことを、愛しているからだ。
 二人の年齢と同じく、この気持ちも増えていくことはあっても、決して減っていくとことはない。
 やがて伊吹は、なにも言えなくなった。
 言い切った櫂の顔が、小学生の頃となんら変わらない、妙な自信に溢れていたからだった。
 それは彼なら大丈夫かも知れないと、周囲を不思議と安心させる、雲間に見える太陽のように眩しい。
「……——なんで」
 誰かと生きるということは、不安ばかりだ。
 それが大好きな人であればあるほど。
 常に、一人になっても大丈夫だという保険をかけておかないと、怖くてたまらなかった。
 伊吹の頬が濡れて、櫂がそれを指で拭う。
 指から伝わる温度が暖かくて、少しだけ沁みたような気がした。
「おれに……そこまでいえるんだよ……」
 そこまで想ってくれとは、願っていなかったのに。
 伊吹は櫂の肩に顔を埋めて、背中にしがみついた。
 伊吹の髪にキスをしながら、櫂は「愛ってやつじゃないか」と割と真剣に答えたつもりであったが、鼻声混じりの伊吹が「ばっかじゃねーの」とバッサリ言い捨てたのが可笑しくて笑った。
 櫂はずっと考えていた。幸せとはなにかを、愛しているからこそ必要な責任と、当たり前の覚悟とはなにかを。
 けれど、それが一番大切なことなのだ。
 ようやく伝えたかったことを伊吹に伝え、反応も悪くはなかった。
 大方、了承ということでいいだろうと櫂はそんなことを考えながら、暫く触れれていなかった腕の中の、伊吹の少し痩せた体を堪能する。
 やはり伊吹に触れるのは心地がいい。
 だが、あまりに密着しすぎていると、どうしようもなく抱きたくなってしまうのは抗えない性り(さが)でもある。
 そろそろ落ち着こう、と言う伊吹の提案はもっともであったが、櫂は帰国している間に伊吹を余すところなく摂取しておきたかった。
 キスなら大丈夫であるのは、先ほど分かった。
 今はそれで補うしかないと、櫂は伊吹の肩を掴んで温もりや重みを惜しみながらやんわりと抱きついていた体を引き離す。
「……そろそろ家、戻るか。冷えてきたし」
 まだ少し赤いままの、伊吹の濡れた目尻にキスをして告げると、伊吹は小さく頷く。
 そんな幼さがどこか愛しく、男心にクるものがあった。
 これはいけない。櫂は顔を引き締める。
 伊吹の仕事用のタブレットなどが入った、そこまで重くはないカバンを代わりに持って一足先に車から出ると、伊吹はコートを小脇にジャケット姿のまま、櫂の隣に身を寄せて歩く。
 マンションのエントランスまでの道のりを黙って並んで歩いているだけなのに、いつもより心が弾むのは、恋人から一応は婚約者になれたからなのかも知れない。
 伊吹がどう思っているかは分からなかったが、少なくとも櫂にとっては特別な日であった。
 手を繋いで歩きたい気持ちすらあったが、グッと抑える。
 そんな櫂をよそに、伊吹は白い息を吐いて、都会の星の少ない空を見え上げて「なあ」と櫂に声をかけた。
「なに?」
 櫂が応えると、伊吹は一度鼻をすすって、櫂の方に視線を送る。
「今夜、抱いてほしい」
 櫂は一瞬、足を止めたが慌てたように即座に歩き始めて平静を装った。
「……暫くシない、という話は」
「あれはもういい」
 伊吹が、そう言うのならそうなのだろう。
 櫂の先導者はいつだって気まぐれな猫のようである。
「嫌なら無理にとは言わない」
「嫌も何も。車ン中から既に抱きたかったのを、なんとか抑えた俺を褒めてほしいくらいだが」
 冗談めかしてそう言うと、伊吹は小さくため息をついて複雑そうな顔をした。そしてそれが、伊吹が照れているときに見せる表情だと言うことも櫂はすでに分かっている。
 櫂は隣を歩く、伊吹の指の先を握った。
 敷地内まで追ってくるマスコミはいないだろうと、適当に自分を納得させて指を絡ませると、伊吹は拒むこともなく、櫂の手を握って夜更の駐車場を一緒に歩いた。
 櫂の体温は、伊吹にとって熱いくらいだった。

 ぐ、と腰を押し込むと、浮かんだままの伊吹の足先がピンと張り詰めた。
 腰から下が、溶けそうに熱い。
 茹だった頭の中で、余すことなく中を満たす櫂のペニスを締め付けながら、伊吹はなんとか口呼吸を繰り返し、腸内の違和感に慣れようと努める。
 シャワーの後。タオルドライのみで半乾きの髪のまま、櫂によってベッドに押し倒されてから暫く。
 そこからは、まさに食事のように櫂に貪られていた。
 前立腺を常に圧迫され続けながら、その奥の精囊を突かれると、伊吹の意志とは反してもはや緩く勃っているのみのペニスから、だらだらと精液とカウパーが混ざったものが白い腹の上に垂れる。
 正常位で、互いに見つめあい、キスを交わして腰を揺する。
 伊吹の両手に、櫂は自ら手を重ねると指を絡ませて強く握った。
 すると、伊吹は浮かせた足を櫂の腰に回し、ペニスが抜けないように体を固定させる。
 密着し、互いの汗が混じる。
 ロクに言葉も交わさぬまま、代わりに視線と息遣いでコンタクトを取りあった。
「ひっ……やっ、そこ、ン、ぁ……やば、い……っ」
「ん……確かに、スッゲー絞られてる」
 笑い混じりに櫂が言うと、伊吹はギュッと櫂の手を強く握り、くびれた腰をのけ反らせて強い快楽を逃がそうとする。
 だが、櫂がそれを許すわけもなく。
 腰を一層密着させて、上から体重をかけると伊吹の弱い部分を目掛けて抉るようなピストンを仕掛けた。
 櫂の恥毛が、後孔に擦れる感覚すら敏感に感じ取ってしまう。
「あ、だめ、や……っ櫂……ひっ、あ、ンっ……また、またイ……ぅあ、ああああッ」
「……っ」
 泣きそうな声で制止を求めながら、あっけなくドライオーガズムでの絶頂を迎えた伊吹は体を震わせ、ビクビクと小さな痙攣を繰り返す。
 その間も、櫂はゆっくりとした動きではあるものの、腰を止めることはない。
 達したばかりで敏感になりすぎている腸壁を、櫂は甘やかすように愛でた。トロトロに熟れてふやけたそこは、ほどよい締め付けと甘ったるい肉感で、櫂のペニスを奉仕し続ける。
 たまらない雄としての快感を得ながら、櫂は喉の奥で笑い、目を細めると徐々に激しいピストンを再開した。
「あ、かい……っまって、ま……っあ、ぁ」
「気持ちいい?」
 俺はいいよ、と耳元で囁けば、伊吹の顔が赤く染まる。
 自分のナカで、櫂が快楽を得ているという事実こそが、何よりも伊吹に効く興奮材料であった。
 目尻が溶け、思考回路が鈍っていく。
「……いい」
「ん?」
「……きもち、い……い」
 徐々に貪るようなピストンに変わりつつある中で、伊吹は自らも腰を揺すり、櫂を求めた。
 その言葉に、櫂はどこか満足げに口端を吊り上げ、伊吹に褒美と言わんばかりにキスをすると「よくできました」と告げる。
 櫂に、褒められた。
 ぼんやりとした思考で伊吹は嬉しくなって、たまらなくなると櫂に「もっと」とねだる。
 櫂に染められるのが、体を使われるのが、やはり伊吹にとっての変えがたい幸福の一つでもあるのであった。
 櫂は伊吹の言葉に応えるように、上から杭を打ち込むようなピストンを繰り返してやる。
 誰にも聞かせられないような恥ずかしくてみっともない、淫らな喘ぎ声が止まらない。
 セックスの最中に得られる、ただの雌のように扱われることで得られる快楽は、伊吹をもう、まともな思考に戻してはくれなかった。
 職場では浮いた噂もなく、禁欲的でストイックと評される伊吹が、まさか自ら腰を振ってペニスを強請っているなど、誰が想像できるだろうか。
 独占欲と支配欲が満たされ、櫂は笑みを浮かべたまま伊吹の首筋に噛み付く。
 これは他でもない俺のものだと。そう主張するように、亀頭に吸い付いてくる伊吹の濡れた腸壁へと子種を吐き出す。
 流れ込む熱いそれに、いつのまにかゴムすら付けられていなかったことを伊吹は悟って、中に出されると同時にまた達した。
 後始末が面倒だから、ゴムをしろと言っているのに。
 ああ、いや、そう言えばゴムがなくなりかかっていたのだっけ——まとまらない思考で、腹の中に広がる熱に脳が浮かされていく。
 伊吹は叱るどころか、今ではどこか幸せそうに櫂から施される種付けを受け入れてしまう。
 伊吹が自らキスをすると、精液が漏れ出さないように櫂がより深く腰を密着させにくるのがゾクゾクした。
 残さず、全部自分の中に注いで欲しい。
 舌を絡ませ、残りも出し終えた櫂は栓となっていたペニスをようやく引き抜く。
 ポッカリと肉輪が開いたまま、中の赤い粘膜を満たす後孔は櫂の精液によって満たられ、ドロリと奥の方から降りてくる。
「いい眺め」
 愛おしげに、櫂がそう言うと暫く横たわっていた伊吹は気怠げに体を起こした。
 もう今日はこれくらいにしておくかと、櫂が告げようとした瞬間。
 肩を押されて、ベッドに押し倒される。
「……えっと、伊吹さん?」
「……まだできるだろ、絶倫さん?」
 挑発的に笑うと、先ほどよりもやや硬度を失っている櫂のペニスを扱きながら、今も精液が溢れている自らの後孔へあてがう。
「……足りない」
 伊吹は櫂に告げ、腰を下ろしていく。
 あまりに眼福な光景に、櫂の正直なペニスは徐々に頭を擡げ、伊吹のナカで膨張していった。
 広げるように大きくなっていく生々しい感覚に、伊吹は肩を震わせながらも櫂のペニスを奥まで咥え込もうと努める。
 その健気さが、淫らなのと同時に愛らしくもあり、櫂は伊吹の腰を掴んで、小さく喘ぐ顔を見上げた。
 このまま、一つになってしまいたい。
 櫂はタイミングを見計らい、ゆっくりと律動を始める。
 伊吹は櫂の動きに合わせて、腰を振って見せた。

     ◇

 空港にて、手続きを終えた櫂はサングラスをかけなおし、見送りへ来た伊吹の元へ戻る。
 相変わらずお粗末な、とてもじゃないが変装とは言えない雑な一つのサングラスに何か言いたくなるのを抑え、伊吹は腕時計を覗いた。
「荷物はもう向こうに送ってあるのか」
 櫂の手荷物は、これからスーパーにでも行くのかと言いたくなるほどの少なさである。おそらく、最低限の貴重品と、デッキケースくらいしか入っていないと見た。
「ま、服とかは家に置いてあったし。もともと帰ってくる時も荷物はあまり持ってきてないからな。デッキくらいだ」
「向こうでは相変わらずホテル暮らしするのか?」
「ああ、楽でいい。そこらで暮すより防犯性もある」
 櫂はフランスに居を構えるつもりはないらしく、それにより櫂の言う《家》は必然的に伊吹と暮らす、あの都内のマンションのことを指していた。
 高校生の頃に住んでいたマンションも全て引き払った今、櫂が帰る唯一の場所が伊吹の元だと言うのが今更嬉しくもある。
「次は……秋くらいか。オフシーズンは」
「夏にチャンピオンシップがあって、取材とかいろいろしてたらそれくらいになるな。ま、合間見つけて帰ってくる。たったこれだけの距離だ」
 櫂から言わせてみると、フランスから日本までの距離も、たったこれだけになってしまう。
 相変わらず、変な男だと思う。
 そんな変人に惚れ込んでる自分も、大概変人だとは思うが。
「……ああ、あと。オレもフランス、行くかもだ。初夏くらいに」
「……え? な……社員旅行か?」
「ばーか、パリの支部とお仕事の話だよ。まあ、オレはただの補佐だがな」
 伊吹は肩を竦めていかにも面倒臭そうに話すが、次に櫂に向けた視線はどこか悪戯っぽいものだった。
「暇があったら会いに行ってやる」
 伊吹は腕を組み、挑発するような、どこか上からの態度で櫂に言う。
 そんな伊吹の態度に櫂は目を細め、「なら、俺は暇があることを願っておこうかな」と笑ってみせた。
 そんな調子で、これから数ヶ月、再び遠距離恋愛となる婚約者同士とは思えないほど気軽な会話を交わし、頃合いとなると伊吹は櫂をゲートまで見送る。
 足取りは、少しだけ重い。
「伊吹」
 すると櫂は手前で、伊吹の名前を呼んだ。
 その声がいつになく真剣な色を帯びていたため、伊吹は小首を傾げる。
「あ?」
 どした、と緊張感もなく伊吹が言うと、櫂はサングラスを取り、数歩先の伊吹の元まで近づくと、人通りも多い空港内で一度伊吹を強く抱きしめ、耳に唇を寄せた。
 そうして櫂がなにか一言を告げると、顔がどんどん赤くなっていく伊吹から離れて目を細める。
「じゃ。また、着いたら連絡する」
 変装とも言えないサングラスを再びかけ、櫂は伊吹に手を振って人混みの中へと消えていった。
 残された伊吹は、赤い顔のまま耳を手で抑え、その場で立ち尽くす。
「……あンの、アホ人誑し……」
 プルプル、と肩を震わせている伊吹であったが、ジャケットのポケットに入れたままのスマートフォンから軽快な着信音が鳴り響き、現実に引き戻される。
 忌々しそうに画面を確認すると、案の定職場からの番号であった。
 ごほん、と一度咳払い。
 仕事モードに切り替わると、完全無欠で冷静な、頼れるみんなの憧れの伊吹コウジとなるのだ。
「……はい、伊吹です。ああ、はい。今から戻りますんで。大体……そうですね、四十分あれば着くと思いますけど」
 伊吹は遠くの方の櫂の背を暫く見つめ、踵を返す。
 どうせ、すぐにまた会える。
 伊吹は電話口の職員と会話をしながら、ジャケットのポケットに手を突っ込み、風を切るように歩いた。

 その顔は、いつになく晴々としている。