無人島より愛をこめて

 暖かな春も目前に迫り、朝から桜の開花宣言を発表するニュースが流れている。
 冬に開催された欧州の大会では毎度のことながら好成績を残し、また新たなトロフィーを日本に持ち帰った櫂はオフシーズンを恋人と共に都内のマンションで静かに過ごしていた。
 嵐のような取材と会見の日々が明け、やっと迎えた穏やかな休日。しかし、櫂の恋人である伊吹は今日も難しい顔をして仕事用のタブレットと見つめ合っている。
 だが、櫂はそれを咎めない。普段であれば職場にこもっているであろうワーカホリック気味の伊吹が、櫂の帰国に合わせて、わざわざこうして家にいてくれるのだ。互いに忙しい日々を送っているのは理解しており、そしてそんな毎日に充実感を覚えているのも知っている。
 無理をしていないだろうか、と体調面での心配がない訳でもないが、これでも昔に比べれば根気強い櫂の教育もあって〝休む〟という概念を多少は伊吹も学習したのだ。
 伊吹を信用している。
 だからこそ、櫂は口を挟まずに見守っていた。
「おまたせ」
 キッチンから出てきた櫂は、二人分のパンケーキをテーブルに並べる。
 なにかに集中していた伊吹も櫂の言葉にタブレットから目を離し、目の前に置かれた朝食に視線を移す。
 そこには相変わらず店で出されても遜色のない、鮮やかな焼色が食欲をそそるパンケーキ。食べごたえのある厚みがありながら、少しの振動でフルフルと揺れる柔らかさは、いつ口にしても絶品である。
 加えて、同じ皿には飾り切りされたフルーツも添えられており、その後は手作りと思しきジャムやシロップ、淹れ方にまでこだわった紅茶が次々と並べられていく。
 櫂が帰国する直前まではコンビニで購入した唐揚げとビールが並んでいたテーブルとは思えない、あまりにも華やかな食卓を前に伊吹は眩しそうに顔をしかめた。
「手抜きで悪いな」
 聞き返しそうになって、やめた。
 櫂トシキという男が全力で手料理を振る舞えばどうなるかなど、伊吹は知り尽くしているからである。
「凄い美味そうなんだが、オレの胃がひっくり返るかも」
「伊吹が不摂生に慣れないように定期的に刺激を与えるのは恋人の役割だ」
 キラキラという効果音が聞こえてきそうな、栄養バランスや見栄えまで考えられた朝食。
 まるで、若者が集まる人気のパンケーキ店にでも来たような錯覚を覚える。
 プロとして成績を残し、落ち着いたら飲食店を持ちたい、などと聞かされたのは二十歳の頃だったか。それから十年近く経つ今、櫂は宣言通りヴァンガードファイターとして活躍し続け、今もなお絶大な人気を誇る日本屈指のプロファイターとなった。
 あの頃は櫂もプロとして伸び悩んでいた時期があり、結果が出たら、落ち着いたら、などと自ら言っていたが現在では最前線で出ずっぱりの状態が続いている。
 しかし、そろそろ若い芽を育てることも考えたいと、自主引退を匂わせることを口にするようになった櫂を前に、自分たちも歳をとったのだなァと考えながら、その時伊吹が口にした言葉は「櫂の思うようにしたら良い」であった。
 ヴァンガードを辞める訳ではない。
 活躍の場、愛する競技に貢献する手段、向き合い方が変わるだけだ。
 ただ、プロから引退するのであれば、櫂が話していたように彼が営む飲食店のことを夢見てしまう。
 与えられた仕事を着実にこなすことを好むサラリーマン気質な己の思考回路も嫌いではないが、伊吹としては何歳になっても追いたい夢が沢山あり、それを叶え続ける櫂が眩しくて好きだった。
「美味い」
「よかった」
 フカフカで、口当たりが柔らかなパンケーキを味わいつつ、櫂が営む飲食店を思い浮かべる。
 定番のスイーツから創作料理まで、なんでも作れてしまう櫂だ。
 そんな空想の中で、いま取り掛かっている仕事の事がふと脳裏に過ぎった。
「……櫂が店出せばいいのにな」
「ん?」
 疲れた五臓六腑に染み渡るような優しい甘さの紅茶を絶賛しようとしていたのに、誤って思っていたことが吐息と共に口から出ていたことを、伊吹はキョトンとした櫂の顔を見てようやく気づき、誤魔化すのも面倒で「いやな」と話し始める。
「普及協会が、有名ラグジュアリーブランドと提携してテーマパークみたいにリゾート地を開発するって発表があったろ?」
「あーそれか。俺もパリ支部でセレモニーがどうとかで会議に出て資料貰ったわ」
「そ。各クランの特色に合わせたリゾートを作るってコンセプトの」
 プロファイターの中でもアドバイザーとして呼ばれることの多い櫂と、普及協会の本部長ともなれば共有できる仕事の話も少なくはない。
 実際、伊吹がこのリゾート開発の主役とも言えるズー支部に掛かりっきりであることは櫂も帰国前から聞いており、今日も朝からタブレットとにらめっこしていたのはこの企画についてであろうことは察していた。
「──で、中でもネオネクタールを冠する島のことでな。ネオネクタールは自然や環境維持に力を入れる一方、小国でありながら高度に発展した技術を所持する二面性があって、こういうリゾートのモチーフとしては期待も気合いの入れようも他とは違ってな」
「まぁ、そうだな。あとは全世界の食料の四割以上を支配するとか言うし」
「それだ」
 伊吹はいっそう、難しい顔になった。
「ネオネクタールと言えば新鮮な食料で作られた美味い飯だ。だから自然公園や農園を建設する中で、レストランや屋台なども出店しよう話になって」
「おお、いいな。楽しそう。観光客だけじゃなく別荘地もあるんだろ? 賑わいそうだな」
 やはり、飲食関係のこととなると櫂の目がひと際輝く。端正な美丈夫が少し子供っぽく話に食いつく様子は、なんでこんなにも愛おしいのか。
 伊吹はキュッと胸を締め付けられるのを平然と装って堪えるが、少し口元が緩む。これだから美形は良くない。
「……レストラン街のテナントの他に別荘地の中には飲食店も開けるエリアを設けてはどうかって流れがあって。で、ただでさえ土地代だのが高い別荘地で、そんなのどこの金持ちの道楽だよって」
「現実的でないと」
「そういうこと」
 昨日から難しい顔をしていた理由を理解した櫂は、なるほどなと苦笑いを洩らした。
 いくら本部長と言っても伊吹が全ての決定権を握るという訳ではない。
 普及協会とは多くの協賛企業などが集まって成り立つ組織であり、伊吹はあくまでも職員の監督管理や指揮命令を主に任されているに過ぎなかった。
 こういった大規模な企画やイベントにおいて意見はするが、それらを全て思いのままに操れるということは皆無であるからこそ、頭を抱える日々が絶えない。
「別荘建てて、おまけに飯屋やりたいなんてさ。櫂くらいじゃねーと無理だなって思ったわけ」
 伊吹は最後の一口を食べ終え「美味かった。ごちそうさま」と言い残して自分の皿を下げにテーブルを立つ。
 櫂ほど金銭的な余裕があり、飲食店をすることに前向きで、なおかつ利益と集客を見込める者などこの世に他にいるのだろうか。
 食後の皿洗い担当である伊吹が、キッチンの前で服の袖を捲くっている背中を、櫂が黙って眺めていることに伊吹は気づかない。
 いくら恋人の贔屓目があるにしろ、そんな超人的な人物は多くはないだろう──などと伊吹がくたびれたように考えていると、続いて皿を下げに来た櫂が至近距離で伊吹の顔を突然覗き込んだ。
 宝石のような緑の瞳が、ジッとこちらを見つめる。
 思わず、伊吹は後退った。
「な、なんだよ」
「いいな。それ」
「なにが」
 なにかを思い立ったのか、相変わらず主語がない。
 伊吹が赤い顔を誤魔化すように咳払いをして聞き返すと、櫂はシンクに皿を置いて楽しげに言った。
「別荘と店」
 いつかフランスの田舎にでも住んで、伊吹と一緒に爺さんになって、海見て暮らしてぇなどと阿呆のようなことを櫂が数年前に話していたことなどすっかり忘れていた伊吹は、櫂の一言に「……はあ?」と肩を竦めた。
 まさか、このまま話がトントン拍子に進むことになるなど。
 この時の伊吹は、己の恋人の行動力がどれだけ凄まじいかを──すっかり忘れていたのであった。