無題

 風の強い日だった。
 空が、遠い日だった。

 アスファルトに照り返された太陽の熱が、瞼の裏にしつこく居座っている。青年の気だるげに開かれた瞼を惜しげもなく縁取る睫毛は重たげで、そこから覗かせる瞳は子供のように、目縁を埋めるほどに丸く大きかった。
 恵まれた体躯と早熟した佇まいから見落とされがちな幼さは、彼本来の中性的な雰囲気に溶け込み、形容しがたい色っぽさを醸し出している。
 ややぞんざいに結われた長い髪から汗が滴り、鳩の背のようにしなやかな丸みを帯びた白い項には後れ毛が張り付いていた。
 主張が少ないにも関わらず、それでも平凡の中では浮きすぎる清潔感のある整った面持ちとは反して、身に纏っているのは普段着として愛用されてから長い、よれたシャツと、裾がほつれたジャージ。そんな投げやりな恰好が、なぜか似合ってしまうのが彼だった。
 そして、手には行き慣れた薬局のビニール袋。
 中にはコンドームと、頼まれたタバコと無糖のコーヒーが肩を寄せ合っている。
 タバコを買ってきてほしいと頼んだ当事者が今年の抱負として禁煙を掲げていたのを彼、ユーリは覚えていたが特に何も言わなかった。
 口うるさく言うのは柄ではないし、相手の体を思ってそういうことを指摘するのは恋人の役目だと思っている。
 というか、そんな些細なことを〝覚えている〟と思われるのが無償に気に食わなかった。
 だから、何も言わない。
 可愛げがないと言われるのはこういうところなのかもしれないと、見えてきた自宅のアパートを見上げ、一度目を瞑り、その後は何もなかったかのように錆びた階段を上がっていった。
「たでーま」
 蹴破れそうな建付けの悪いドアを開け、手も使わずに靴を脱ぐ。狭い玄関に並べられた二人の靴を踏みながら、部屋へと入っていくと、我が家のように寛ぐ男の背があった。
「おけーり」
 見るからに胡散臭いこの男を、いつからこんなに当たり前のように住まわせていたのだっけ。床に座って足の爪を切っていたらしい男の傍に、ユーリは手に持っていた薬局の袋を置く。「ありがと」と声がして、頷き、その辺にかけてあったタオルで首元の汗を拭いた。
「あれ? おつりでアイス買ってきてもいいよって言ったのに」
「こんな時だけガキ扱いすんな」
 律儀にレシートに包まれた釣銭を見て、男、レイヴンが笑う声がする。
「ガキはコンドーム買わんでしょ」
 同棲しているわけではない。
 数週間、レイヴンが帰ってこないこともザラにある。けれどユーリは無関心でいることに徹していたし、連絡が来なくとも何も言わなかった。
 ただ、そんなときは、行先も何も言わずに黙って引っ越してやろうかなどとも思う。
 けれどそんなことをしても、この男はまた別の止まり木を見つけるのだろう。
「セックスしかすることねぇだろ」
 思っていたより冷たい声が出てしまった。
 別に腹立たしいとも思っていなかったのに、時々自分自身が、分からなくなる。
「セックス以外にしたいことあんの」
 レイヴンが少し黙って、慌てて何かを言おうとした矢先に想像していたのとは違う切り返しをされ、思わず言葉に詰まる。
 汗を拭きながら振り返った。けれどレイヴンは俯いて、こちらを見ることもせずに爪を切り続けている。
 何をしたいとか、何をしたくないとか。
 セックスが不満だとか、そればかりじゃ嫌だとか。
 明確な名前のある関係でもない、曖昧な繋がりの上でどこまで言っても呆れられないのか、重くないかばかりを考えては言葉と同時に感情を濁す。
 瞼の裏に、熱が、まだ。
 先日、ポストに放り込まれていた花火大会のチラシを、ユーリは黙って丸めながらゴミ箱に放り込み、「別に」と小さく答えた。