セックスが終わると、伊吹は淡々と風呂を済ませて帰ってしまうのが常であった。たとえ終電を逃そうと、ランニングがてらに歩いて帰ると言って、そのまま櫂の家を後にする。
 その行いに対して、櫂は引き止める強制力はおろか、不満を吐露する資格もない。
 なぜならば、二人は恋人でもなければ、今となっては友とも言い難い関係になり果てていたからだ。
 その日も、伊吹が気まぐれに櫂に抱かれに来ては、さほど会話を交わさぬうちに狭いベッドの上で獣のように重なった。
 組み敷いた、張りのある体は十分な質量を持ち、同性だと言うのに櫂の瞳には妙に艶かしく映る。
 伊吹とのセックスに溺れ、自慰を覚えたばかりの子供のように白い体を貪るのは、櫂にとってはどこか滑稽であり、生々しかった。
 そして日付が変わり、今。
 外では車軸のような雨粒が、アスファルトを削らんばかりに降り注いでいた。
 セックスを終え、まだ火照りが引かない体を持て余し、伊吹はカーテンの隙間から静かにその様子を眺める。
 白い横顔は、櫂の瞳にはどこか悲しげにも見えた。
 セックスが終わると、伊吹は極端に口数が減る。それも、いつものことである。
 無言のまま相づちを打つか、悪態をつくだけの人形となるのであった。
 その刺々しさからは、かつての穏やかで、優しく、気の弱かった頃の伊吹の面影は見られない。
 ただ、素肌にワイシャツを一枚だけ羽織り、見窄らしく濡れた夜の後江を切なげに見下ろすその姿だけは、当時の先導者を彷彿とさせるものがある。
 風呂が沸くまでの間。
 櫂はベッドに腰掛けながら、少し、その横顔に見惚れていた。
「……伊吹」
 自然と漏れた己の声に、櫂は驚く。
 一方で、伊吹はなにも言わず、櫂の声に応えるように視線を送った。
 浴室へと繋がる廊下の灯りが点いているだけで、寝室も兼ねているリビングは薄暗いばかりであるのにもかかわらず、伊吹の赤い瞳が、ぼんやりと浮かんでいるのが幻のようにも感じる。
 思わず、呼び掛けた声が掠れた。
「……雨、酷いしさ。朝に帰れば?」
 外では、雷を孕んだ雲がゴロゴロと不服そうに鳴いている。
 いつものことながら終電もなく、深夜料金のかかるタクシーは現実的ではない。けれど後江から福原までの距離を、この雨の中、徒歩で帰らせるには気が引けた。
 始発の電車に乗れば、問題なく伊吹は通学に間に合うだろう。櫂はそれを見越して、宥めるように提案する。
 しかし伊吹は櫂の言葉に対して、反応を示すことはない。ジッと顔を見てくるだけで、呼吸をしているかすら怪しかった
 白い、肉の塊がそこに立っている。
 櫂はおぼろげな夢を見ているようだった。
 もしくは、夢なのかもしれない。
「……べつに。帰れる、このくらい」
 肉の塊は、暫くしてから口を開き、ようやく言葉に応えた。
 叱られた子供のような口ぶりで、気まずそうに。
 強がっている様子はない。
 ただ、どこか――不安そうに、櫂には見える。
「そうはいってもな……雷、鳴ってんだろ。あぶねぇよ」
「一生のうちに人に雷が落ちる確率は一千万分の一程度らしいが」
「そうじゃなくて」
 今となっては慣れたものになりつつある憎まれ口の応酬に、櫂は苦笑いを漏らした。
 その笑みに伊吹はなにを思ったのか、あからさまに気分を害したようで眉間に深く皺を刻む。
「なんだよ、めんどくせえ。ほっとけって言ってんだよ」
 櫂が諦めるのを待っている声だった。伊吹は複雑だが、感情が声に出やすい。
 ひどく無愛想な声で紡がれる伊吹の屁理屈を跨ぎ、悪態を避けて、そしてやっとたどり着く向こう側。
 普段の櫂なら、踏み込むこともない場所だ。
「……俺が心配だから、いま帰って欲しくない」
 しかし、今日の櫂は、伊吹をまっすぐに見つめて告げてみせた。
 もしも、もしも伊吹になにかがあったら。
 きっと——否、間違いなく後悔すると櫂は確信すらあったのだ。
 たとえ、一千万分の一だろうと、僅かな可能性が分かっている限りは、むざむざと伊吹を危険に晒したくはない。
 恐れに近い感情を抱いている。
 可笑しな話である。腕っぷしで言えば自身よりも屈強と言える、背丈も体重も変わらない男相手に、こんなことを思うなど。
 この恐れは、先導者を失う悲しみなのか、はたまた自責の念に駆られることに対するものなのか。
 ただ、分かることは。伊吹が拒んでも、彼を大切にしたいと思う強烈な感情があるということだけだった。
 そんな切実とも言える櫂の言葉に対して、一方の伊吹はと言うと——馬鹿にするでもなく、気味悪がるわけでもなく。
 幼子のように口をぽかんと開き、何度か瞬きをしてみせた。
 その、なんともあどけない伊吹の反応を目の当たりにした櫂は思わず目を丸くする。
 即座に「うざい」だの「黙れ」だの、そう言った類の返事が返ってくると思っていたため、毒気を抜かれたのであった。
 櫂は、かれこれ関係を持ち始めてからと言うもの、伊吹の意思をずっと尊重してきた。
 嫌だと言えば強くは引き止めることもなく、聞いて欲しくなさげにすれば何も言わない。
 これは同意の上とは言えど、体を好き勝手にさせてもらっていることへの罪悪感や、先導者に対する敬意のようなものが入り混じる、言わば濁った厚い壁のようなものである。
 そんな壁を隔てて接しでもしないと、今度は伊吹から離れていきそうな気がして、櫂は伊吹の言葉に黙って頷くことを選んできた。
 だが、その壁を僅かにずらして踏み込んできた櫂に、伊吹はあからさまに隙を見せたのだ。
 この意外な反応に、櫂は少し得意になる。
「お前がベッドを使ってくれて構わない。二人寝るにはさすがに狭いだろうから」
 返事も聞かないまま櫂が一方的に告げると、伊吹はようやくハッとして、思い出したように櫂を精いっぱい睨んでみせた。
 これまた慣れつつある伊吹の鋭い視線を受け、櫂はそこで、ふと違和感を覚える。
 伊吹の、いつも通りであるはずの、刺々しい視線が妙に演技じみていることに。
「か、勝手に決めんな」
 それは不安がる猫が、相手を威嚇をするようでもある。
 ——ああ、そうか。
 櫂は伊吹を、また一つ理解した。
 伊吹の攻撃的な反応は、自分の体を大きく見せるために猫が毛を逆立てるように。己を守るために、あるものなのだ。
 そしてこの人は、自分を守るための術が、攻撃しか持たない人であるということを。
 しかし、伊吹はなにから己を守ろうとしているのだろう。櫂は伊吹に危害を与えるつもりは一切なく、それは今までもそうであったはずだ。
 それなのに、伊吹は櫂の厚意を攻撃だと見なして、一生懸命に毛を逆立てている。
 やめろ、近づくなと。
 不安そうに、櫂を拒んで——そこまで考えた櫂は、答えが至ってシンプルであることを理解して、今度は困ったように、どこか愛しげに伊吹に微笑みかけた。
 あの、外を見つめる不安げな顔も。
 雨の中でも、帰ろうとする頑なさも。
「……なにヘラヘラ笑ってんだよ、気色悪い」
「いや、すまん」
 己の存在が、櫂に負荷をかけている。
 少なくとも伊吹は、きっと、そうだと信じているのだろう。
 ヴァンガードファイトにおけるテクニックを除く、その他の自己肯定感が、伊吹は極端に低い人だった。
 ——実際、伊吹は自分の体を対価として差し出すことで、櫂の傍にいようとしていた。
 だからこそ、セックスを終えたら、『ここにいても良い』理由は伊吹の中にはなくなる。
 差し出せるものもないのに、櫂の言葉に甘えるほど厚かましくもなれなかった。櫂の優しさは、知らず知らずのうちに対価として自らの体を差し出す伊吹の価値観を否定し、伊吹自身を不安にさせ、そして苦しめていく。
 これはきっかけを作った己の自業自得であることなど、伊吹はわかっていた。
 けれど、今更引き返すこともできず、自分を守るための攻撃を続けるしかできない。
 悪循環。
 だが、櫂はそこまでは気付いてやれない。知る由も、ない。
 伊吹の悲しいまでの恋心にも、変わりつつある自分自身の感情にも。
 櫂からしてみれば、再び友人をやり直そうと、己がそう思っていたときに、抱いてくれと最初に言ってきたのは確かに伊吹の方であった。
 いとも容易く壊しにきたのは、伊吹の方だったのだ。
 このセックスに、伊吹がどれほどの思いを抱いていることなどわかるはずもない。
 痛くても良い、なにもしても良いと。自分を相手にしているときは、好きな女のことでも考えてくれてても良い、などと言ってきたのである。
 誰かの代わりでも良いから——伊吹は、櫂に縋った。
 想われているなど、誰が察するだろう。
 櫂にとって、伊吹がなにを考えているのかは、今も分からないまま。ただ、櫂が近づけば毛を逆立てて離れ、櫂が離れれば迷子のように俯く伊吹を、放っては置けずにここまで関係を引っ張ってきた。
 嫌われてはいないらしい、それだけを頼りに。
 けれど櫂は伊吹に、体以外を求められてはいない。と、言うよりも、伊吹は求めようともしていないのは確かだった。
 伊吹は櫂に、手を伸ばそうとすらしていなかった。
 そして、伊吹が攻撃的になるのは、決まって焦った櫂が、伊吹の心に手を伸ばしたときなのである。
 体は縋って、しがみついてくるのに、心に手を伸ばせば強く拒むその姿が、櫂にはどうしても理解できない。複雑に絡まった毛玉を、茫然と見下ろすしかできないように。
 なぜ、伸ばされる己の手を怖がるのだろう。その手は伊吹を攻撃するためのものでも、ましてや突き放すためのものではないのに。
 ——分かってもらうには、どうすれば。
 いつもであれば、櫂はそこで身を引くところである。
 すまなかったと言って。そうすれば、伊吹は安心したような顔を見せるからだった。
 だが、今日は。
 ——櫂は伊吹を、知りたかったのかもしれない。
「……伊吹」
 再び名を呼ぶと立ち上がり、伊吹の腕を掴んだ。
 離せと伊吹が振り払う前にベッドを背に、櫂が後ろへ体重をかける。すると、ベッドのスプリングはなんとか二人分の体重を受け止め、ギシリと唸った。
 腕の中には、伊吹がいる。
 こうして密着することは、セックスのとき以外はないことだった。
 陶器のように白いのに暖かく、しっかりと重みもある。汗の匂いに混じって、甘いような香りがした。
 洗髪剤の類ではない。どこか懐かしく、安心するような——伊吹の、香りだった。
「はっ、ぼ、ボケっ、こら! 離せ!」
「ヤだね。離したら、帰るんだろ。俺ンこと置いて」
「は、はあ?」
 本気で嫌なのであれば、伊吹の力を持ってすれば櫂のことなど簡単に突き飛ばせるだろう。
 だが、それをしないということは、伊吹も嫌という訳ではないのだ。
 櫂は——そう、思うことにした。
 その方が、気分がよかったのだ。
「……いたらいいだろ。迷惑でもなんでもねぇよ。それに、濡れて帰って後から風邪引いたとか聞かされた方がよっぽど気分悪い」
 触れ合っている、素肌の部分が心地良い。
 指通りのいい伊吹の髪を手櫛で梳きながら、櫂は素の強引さを持って、初めて伊吹を説き伏せてみせた。
 思えば、再会をしてからというもの、伊吹に対してずっと気を使っていたのかも知れない。不可抗力とは言えど、置いていってしまったという後ろめたさも、常にあったのは確かだったから。
 そんな遠慮や気遣いが、伊吹に不安を抱かせる要因の一つになっていたのかも知れないと、櫂はやや見当違いではあるが、少しずつ核心に近づいてきてはいた。
「……いろよ、ここに」
 耳元で低く囁くと、伊吹は少し身動ぎつつも、徐々に静かになっていく。
 伊吹の目の前には、少し強引で、めちゃくちゃなところがある櫂トシキがそこにいるのだった。
 五年もの間、思い続けてきたその人がいる。改めて、そう自覚した。
 窮屈な体勢で櫂に抱き締められたまま、泣きそうになるのを抑える。そのまま、櫂の肩に顔を押しつけた。
 櫂くん、と呼びそうになるのを我慢して、「ばっかじゃねーの」と呟く。
 櫂の耳になんとか聞こえた、小さな悪態。
 櫂は腕の中の伊吹に視線をやると、髪の隙間から見える耳が、燃えるように赤くなっていることに気づいた。
 やはり。嫌われては、いないらしい。
 ──それどころか。
 今まで、綺麗だとか、淫らだとか、そう思ったことは何度もあった櫂ではあるが、このとき初めて伊吹を可愛いと思ったのだ。
(……優しすぎるより、強引な方がいいのか?)
 思えばセックスの時も、伊吹は優しい愛撫よりも痛いくらいの方が良さそうにする。本人が聞けばそれこそ怒り出しそうなことを思い返しながら、櫂は悪戯っぽく目を細めてみせた。
 つまるところ、よそよそしく気遣おうとする櫂よりも、少し強引で、遠慮のない素の櫂の方が伊吹は良いらしい。そちらの方が櫂も楽なのは、確かなのだが。
 伊吹は繊細で、複雑だ。
 けれど、面倒だと思うよりも先に、攻略してやろうと意気込んでしまうのは、己が変人だからなのだろうかと櫂は首を傾げる。
 なお、変人というのは、伊吹が櫂に対して頻繁に投げかける悪態の一つだ。
 こうして結局、風呂が沸くまでの間、櫂は会話を挟むことなく伊吹を抱きしめ続けていた。やがて伊吹は身動ぐことすらなくなると、セックスで何度もイかされ、疲労が既にピークに達しつつあったからか、あろうことか櫂の腕の中で静かに寝落ちた。
 煩かったはずの心音が、櫂の体温に解されてしまったのである。
 クウクウと寝息を立て始めたのが聞こえ、柄にもなく腕の中の旧友に対し、櫂は妙に胸が痺れた。
 そんな穏やかな寝息に櫂もつられると、最後にはそのまま、同じく目を瞑って眠りにつく。
 寝息を交わす二人の意識の隅で、風呂が沸いたことを知らせる暢気なメロディが気まずそうに奏でられたことに、櫂と伊吹は気づくことはなかった。

 ──翌朝。
 先に起きた伊吹が顔を真っ赤にして、抱きしめてくる櫂から離れようともがいたものの、寝ぼけた櫂になかなか離してもらえず、羞恥やら戸惑いやらで泣きそうになったことは、すっかり晴れ間を見せた青空しか知り得ないことである。