櫂くん誕生日2019

 母が小学生の頃までは、八月いっぱいまで夏休みであったらしい。八月下旬までの夏休みしか知らないアイチにとっては羨ましい限りであったが、今年は少し事情が違う。
 その日は、昨晩から続いた雨だった。
 始業式から数えて三回目の放課後。アイチは中学校の玄関前で屈み、体躯に不相応な大きな制服の裾を一生懸命に折っていた。こうでもしないと、ズボンが濡れたコンクリートを擦ってしまうのである。
 隣に立てかけられた大きな黒い傘は、父が日本に置いていったものだった。所作がとくに乱暴というわけでもないにも関わらず、なぜか傘を壊しがちなアイチが昨年から勝手に拝借している。父の傘を借りてからは、不思議と傘を壊すこともなくなり、以降は決まってこればかりを使っていた。
 アイチの身の回りには、大きなものがたくさんあった。制服、傘、カバン。それが、少年の小柄さや幼さを際立てている。
 十分にズボンの裾を整えてから、紅葉のような手で傘の手元を握り、立ち上がると傘を開いて玄関を出て、数歩。なにやらハッとしたような顔を浮かべて踵を返し、鈍くさそうにヨタヨタと戻ってきたと思えば、玄関に置いてけぼりを喰らった学生カバンを慌てて抱える。
 今日はカードキャピタルには寄る予定はなく、普段は一緒にいる森川や井崎もいなかった。
 アイチは一人、少し特別な、なんの変哲もない雨の日を歩いた。

「三和と櫂じゃん」
 放課後が始まると、女子トイレという場所はやたらと混み合うものである。中から化粧と言う名の武装を済ませたらしい女子生徒の集団がワラワラと出てくると、靴箱の前でなにか話しているらしい、やたらと目立つ同級生二人の姿を見かけ、彼女たちは嬉しげに声をかけた。
 三和はその声に気づくとニコーッと人懐っこい笑顔を浮かべ、ゆるく手を振る。
 彼は素でこういった可愛げのある反応に定評があるため、性別問わずにやたらと構われる傾向にあるが、それに比べて隣の櫂はといえば、女子の方を見ることすらせず無言で携帯を取り出して触り始める始末。
 ご覧の通り、いくら見た目が良くても愛想は最低ライン以下であるため、櫂トシキという存在はほぼ〝観賞用〟として割り切られてしまっていた。
 今のように三和のついでに声をかけられても、櫂が可愛げのある反応を返したことは今まで誰に対しても一度もない。
 地元の高校というだけあって、櫂のことを小学生時代から好きだったという者も不特定多数確認されており、成熟して当時の幼さも抜け、大人びた櫂に対して再度恋心を抱く者も少なくないとは聞くが、彼はあれだけモテていても告白をされたことがないという。
 理由は単純だ。
 そもそも、人からの呼び出しに一切応えないからである。
 俗称、宇宙人。女子に声をかけられるなり「お前誰」と言い放って泣かした相手は数知れず。しかし、聞くところによると〝これ〟に関しては小学生の頃からそうだったらしいが。
 ツン、というよりいっそ無である。表情筋さえろくに動かさない櫂の笑顔を、誰も見たことがなかった。
「三和っち雨ふってるよ。傘ないの?」
「昨日ツタヤでパクられてさー。朝は止んでたし走れば問題ないかなって思ったんだけど」
「いまけっこう降ってるよ」
「あたしの折りたたみ、かしてあげよっか」
「いいよー、そんなの。オレ走るし」
 そうして櫂を余所に三和が女子と話している一方で櫂は携帯をしまうと、おもむろに靴を履き替え始め、通学カバンとなにやら見慣れない紙袋を抱えて「もう行く」と素っ気なく三和に声をかけた。
 夏休みが明けると、中には変化がある者もいる中で櫂は相変わらず。
 夏だというのに一切日焼けをしている様子のない陶器のような真っ白な肌は相変わらず眩しく、小さな顔に丁寧に並べられたパーツは相変わらず一つ一つが抜かりなく整っていた。
 愛想の悪ささえ霞む見た目の良さ。どこか現実離れした存在の彼が、陰で宇宙人疑惑をかけられてしまうのも仕方がないとすら女子たちは思う。
 まあ、結局顔は大事よねーというのが年頃の少女たちの感想であった。
「あいよー。また明日なー」
 そんな三和の間延びた返事のあと、玄関に向かおうとした櫂であったが再度振り返って三和の方を見つめ、暫しの間。
 他の生徒であればあまりの眼力に震えて声も出ないであろう場面でも、三和はキョトンとして「なんぞ?」と呑気に問いかけた。実際ただ見ているだけにすぎないのだが、なんとも言えない迫力に女子たちはソロソロと三和の後ろへ隠れてしまう。
 けれど櫂はなにも言わないまま。
 ただ、持っていた自分の傘を三和に無理やり握らせたかと思うと、そのまま外まで向かっていっただけであった。
「え、ちょ、待て待て。濡れるって、櫂!」
「迎えが来る、黙って使え。明日返せよ」
「……はっはーん。オレを利用すんのかァ?」
 なにかを察したらしい三和が片眉を上げて、そう皮肉ると櫂は口端を釣り上げつつ「これ、〝戸倉〟にも礼を言っててくれ」と紙袋を持ち上げながら意地悪そうに笑ってみせた。
 あ、バレてら。
 三和はもう一言、からかってやろうかとも考えていたがそれ以上はなにも言えなくなり、遠い目のまま「あっはい……」と力なく応えるしか出来ない。
 雨の中の霞んだ景色に溶けていく櫂の後ろ姿を虚無感に包まれた表情で見送っていると、背後にいた女子たちが二人のやりとりに首を傾げた。
「……なにあれ脅迫?」
「ソウダネ」
「ていうかトクラって誰なの」
「そうだよ。もしかして新しい彼女?」
「え、違う違う」
 じゃあ誰、と徐々に熱が籠もり始めた女子からの質問責めに対して三和はヘラヘラと否定の言葉でごまかしながら(櫂め、とんでもない置き土産をしていきやがったな)と脳内で毒づく。
 しかし、なにはともあれ濡れ鼠になることを回避できたことを考えれば、傘を貸してくれたこと自体は有り難い。
 態度はどうであれ、櫂の機嫌が存外よさそうなことに気づいた三和は少し晴れやかな気持ちになって、今日が櫂にとって良い日であればいいなぁと考えながら己を囲み始めた女子たちから慌てて逃げるように別れを告げると、人気のない玄関前まで走って逃げていった。
 飛び出した雨の中、櫂が貸してくれた傘を早速さしながら三和は周囲を見渡して誰もついてきていないことを確認すると、携帯を取り出してメッセージアプリを開き、慣れたように何かを打ち込む。
 宛先は《ミサキちゃん》。
 今はまだ「可愛いな」と思っているにしか過ぎない、行きつけのカードショップの店員である。友人の誕生日プレゼントが決まらないと話していたところ、彼女の方から「一緒に選んであげようか」と冗談混じりに言ってきたことをきっかけに、先日初めて二人で出かけたのだった。
 そう、それだけ。
 私服と、いつもより派手な化粧がとても可愛くて、なんども褒めただけである。
『今日バイト?』
 送信したメッセージに暫くしてから『うん』と一言、彼女からの簡潔な肯定の返信が届く。それに対して三和が『じゃあショップ行くー』と送れば、可愛らしいネコが『了解』と言っているスタンプが一つだけ届いて、思わず神妙な顔をした。
 普段は素っ気ない返信のなかで、たまにある可愛い年相応のメッセージ。それに対して少しときめいてしまっている自分がいる。
 オレもしょせんは単純な野郎だ、と櫂から借りた傘をクルクルと回しながら、少し弾んだ足取りでカードキャピタルへと向かった。
 着いたら、櫂が喜んでいたと伝えよう。
 今度お礼に、と約束を取り付けよう。
 三和は今ごろ、可愛い可愛い恋人と宜しくやってるであろう櫂に対して、自分もこれくらいは良い思いをしても許されるだろうと笑って見せた。


 
 小雨になりつつある雨に降られながら、櫂は小走りですぐ近くの公園まで向かう。
 雨の日の公園というものは、普段はいる幼い子供達の姿もなく、静かで、ただ雨が降る音だけが静かに聞こえている。
 公園の中へと足を踏み入れると、あずまやの近くで大きな黒い傘が地面に開いたまま、一つだけ転がっていた。
 否。あれは、傘を開いたまましゃがみこむ、アイチの背中だと気付いた櫂は少し笑う。体が傘に埋もれているのであった。
「アイチ」
「あ! 櫂くん、おかえ……わ、わー!? 濡れー!」
 櫂の顔を見るなり、心底嬉しそうに目を細めたアイチであったが、櫂がらしくもなく傘もささずに雨に濡れているのを見て素っ頓狂な声を上げた。
 櫂の腕を引っ張って、屋根のついているあずまやの中まで引っ張り混むとカバンの中からタオルを出そうとする。
 出てきたものは、シワだらけのタオルである。
 アイチは恥ずかしそうにして、「汚くないんだよ、使ってないんだけど、あの、カバンの底に入れてただけなんだよ」と妙に弁解をしながら櫂におずおずと差し出した。
 アイチを抱きしめる時に香る、柔軟剤の匂いがする。
 櫂は「助かる」と言って、クシャクシャのタオルで顔などを拭いた。
 白いシャツが、櫂の色白い素肌に張り付いている。アイチはなんだか見てはいけないようなものを見てしまったような気持ちになり、視線をそらすが、それでもチラチラと見てしまうのをやめられない。首筋にツツッと水滴が垂れたのが見えて、これがコメディ漫画であれば鼻血が出ていてもおかしくないと真っ赤な顔で唇を噛み締めた。
「なにしてたんだ」
「へあ!? えっな、なにがでしょうか……!」
「さっき。しゃがみこんで」
 櫂がそう尋ねて、アイチはしばらく固まったあと、質問の内容を理解して「ああ」と頷く。
「カ、カナブンがね」
「カナブン?」
「カナブンが、あの、ひっくり返ってて。あ、でもねカナブンは飛べるから、ひっくり返ってても羽で自力で起き上がれるんだけど。でもぼくのお父さんがいつも助けてたからぼくもって、助けてあげようとしたら死んじゃってたから埋めてたんだ」
「ふうん」
 アイチはなんでもない風にそう語った後、ハッと深刻そうな青い顔をして櫂の方を見る。
「ご、ごめん! 誕生日なのにカナブンが死んでた話とか聞きたくないよね!?」
「そこまで繊細じゃないが」
 あいかわらずアイチは一人で百面相をしている。
 櫂はアイチを面白い生物だとつくづく思いながら、湿った前髪をかき上げるとアイチの名前を呼んだ。
 なぜか緊張している様子の――櫂がそばにいると大体そんな感じだが――アイチは、櫂の方を見上げる。
 櫂はそのまま、アイチの小さな顎を持ち上げ、自ら屈むとアイチに口付けた。
 誰もいない、小さな公園。アイチが握っていた傘を派手に落として、櫂は顔を離した。
「賑やかなやつだな」
「ご、ご、っごごめんなさ」
「帰るか。傘、入れてくれるだろ?」
 ずい、と櫂が顔を近づけるだけでアイチはあわあわと視線を散らかしながら、慌てて落とした傘を拾い上げる。すると、櫂はアイチの手から傘を奪い取り、我がもの顔で傘を開いた。身長差から見て、櫂が持つのが妥当なのは分かってはいるのだが。
「早く来い」
「う、うん」
 櫂が呼びつけると、アイチは遠慮がちに櫂の隣に立つ。櫂はそんなアイチの肩を抱いて自分との距離を強引に詰めさせると「濡れるぞ」と有無を言わさぬ様子で告げ、アイチは「ひゃい」としか言えなかった。
 櫂はアイチの歩幅に合わせて歩く。
 側から見ると年の離れた兄弟のようでいっそ微笑ましい光景であったが、実際は一歳しか変わらない恋人の隣でアイチは肩が触れるたびに変な顔になる。
「今日、冬瓜で飯作ってやるよ」
 アイチがうつむきながら緊張しているのを横目で見て、自分の責任だしな、と思いながら櫂はアイチに他愛ない会話を振った。
「とーがん?」
 冬瓜、と聞いてアイチは首をかしげる。
「冬瓜は夏野菜なんだ」
「えええっそうなの? 冬なのに……」
「冬までもつから、だそうだ」
 アイチは櫂の方を見上げながら、感心したように頷いて「櫂くんものしりだね」と子供じみたことを言う。
 それが、なんともあどけなくて可愛いかった。
「ケーキ、あの、薬局の向かいの店で買おうね」
「ケーキ……は、いらねぇだろ」
「い、いるよ……! お誕生日だし……ぼくお小遣い持ってきたんだもん」
 アイチが唇を尖らせてそう言うなら、買ったほうがいいか。
 金を出させるつもりはさらさらないが、櫂は「分かった」と言って、隣の小動物が満足げにニコニコしているのを盗み見しながら、アイチが好きだったのはチョコのケーキだったか、と注文するケーキを考える。
 誕生日を祝うと言ったところで、中学生にできることなど多くない。それでも櫂が、家に呼んでくれると言うなら、できる限りのお祝いをしようとアイチは考えていた。

「とーがん、たのしみだなー」
「そうか」

 櫂は外側の肩を派手に濡らしながら、アイチが濡れないように傘を傾けて穏やかに笑う。
 今日は櫂の、例年と少し違う誕生日であった。